斬魔士
闇夜の山中、少女は必死になって駆けていた。
後ろを振り返ってはいけない。振り返りたくても、振り返ってはいけない。
追ってくる『モノ』は、どこまで自分に近づいているだろうか。
確かめたくて、振り返りたくて。
息は上がり、足はもつれ、それでもなお全力で駆けていく。
がつり、と。
張り出していた木の根に躓き、少女はその疲れた身体を地面へと投げ出してしまった。
足も手も腰も何もかもが、もう限界だ。
追われる恐怖は、少女の精神的な限界をも超えている。
「きゃ、あ、あ、ぁぁ…っ」
それでも必死に身体を起こした瞬間、少女を覆う大きな影があった。
悲鳴すら上げられない。
この影は、紛れも無く少女が逃げていた『モノ』。
掠れた息のような声だけが、かすかに口から漏れ出した。
足はもう、がくがくと震えるばかりで使い物にならない。
「……レド…ッ!」
死ぬんだ。
少女はそう覚悟して、それでもその恐怖に耐え切れず、背後を振り返りも出来ずに瞳をきつく閉じた。
その脳裏に、最愛の人の姿を思い浮かべて。
ざく。
死を覚悟した少女の耳に、肉を切り裂くような不快な音が聞こえてくる。
自分を噛み砕く音だろうか。
そう思ったが、少女の身体に痛みは無い。
恐る恐る瞳を開くと、少女の眼前には―――黒い、肉塊。
ばしゃりと嫌な音がして、二つ、三つと肉塊が次々と地面へ落ちていく。
少女は何が起こったのかわからぬまま、震える身体をなんとか反転させて、背後で起こっているその有様を目にした。
深い森の中に降る、僅かな月明かりを浴びて。
少女に背を向け、佇む人影。
その前には、少し前まで確かに少女を追っていた『モノ』が、いまや哀れな肉片となっている。
少女の前に立つ人影は、長い髪を風になびかせ、一風変わった服を纏っている。
手には、数枚の紙片。
僅かに差す月光に照らされた横顔は―――まるで、女神のように美しかった。
「…もう、大丈夫よ」
凛とした声が響いて、少女は我に返った。
先ほどまで自分を追っていた恐ろしい『モノ』は、既に原型を留めないまでに細かな肉片と成り果ててぴくりとも動かない。
麗人は見事なまでに美しい所作で、さらりと少女を振り返って――微笑んだ。
「あなた…は」
震える声は、恐怖よりもその美しさからだろうか。
少女は目の前で微笑む、返り血すら浴びていないその麗人の美しさに息を呑んだ。
「………私は斬魔士。この世の『魔』を払う者」
絶世の美女はそう言って、優しげな微笑をより一層深めた。
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